大学時代が一番しんどかったです。
当時付き合っていたパートナーや家族との関係悪化に伴い、高校2年頃に発症した摂食障害が悪化してしまったことが主な原因でした。特に大学2年時から、拒食から過食嘔吐に症状が変化ました。その結果、親や誰かが想いをこめて作ってくれた食事をまともに食べられないどころか、吐いて粗末にしている自分が許せず、罪悪感と情けなさに苛まれていました。そんな症状の中で、更に低くなっていく自己肯定感をなんとか保ちたいと思い、また、過食嘔吐の症状が出る時間の隙間を作りたくなかったことから、とにかく色々な活動に参加するようになりました。「誰かの役に立つ」という実感を求めて、自己犠牲的に分刻みのスケジュールをこなす毎日でした。さらに、食事のことで家族と衝突してしまい、挨拶もまともにできないような関係になってしまったため、家にも帰りづらい状況が続き、精神的にもかなり追い詰められていたと思います。過食嘔吐の症状がひどく、夜中に何度も過食と嘔吐を繰り返し、ほとんど寝ない生活が続いていました。そのため、身体もボロボロになり、当時の健康診断はほぼD評価という状況でした。
何よりも辛かったのは、家族やパートナー、友人を含め、症状について隠さずに話し、助けを求められる相手がいなかったことです。嘔吐してしまった後に身体の震えが止まらなかったとき、何度も自殺防止ダイヤルに電話したり、同じく摂食障害に苦しんだことのある方のブログを読み漁って、明日一日だけもう一度頑張ってみよう、と自分をつなぎとめて生きていました。
少しずつ、さまざまな形で自己肯定感を高められたことが、乗り越えるきっかけになったと思います。
大学時代は、授業もサークルもバイトも、摂食障害のために諦めざるを得ないことが多く、絶対に行きたいと思っていた留学も実現できませんでした。このまま、学費をただ無駄にしながら何の成果も得られず、病気も治らないまま社会に出て、また同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖を感じていました。そんな中、何か行動を起こさなければという思いで出会ったのが、日本語教育の勉強や留学生支援の学内アルバイトでした。この経験を通じて、大学院進学への道が開け、アルバイトで自分のアイデアや取り組みを認めてもらえたこと、さらに研究を評価してもらえたことが、自分自身を少しずつ受け入れるきっかけになりました。また、就職活動を通じて、過去の経験や困難を肯定的に捉えてもらえたことも大きかったと思います。特に、自分が提案したアイデアが評価されることで、「病気に縛られていない自分の本来の特性」を認めてもらえたことが、自信につながりました。また、摂食障害について正直に話した際、病気を含めた「今の自分の特性」を受け入れてもらえたことが、自分の状態をまるごと受け入れるきっかけになりました。この経験から、「病気を理由にやりたいことを諦めなくてもいい」と考えられるようになったのだと思います。
摂食障害は、食事という生活に密着した部分に影響が出る疾患なので、単に「食べる・食べない」の問題を超えて、人間関係や自分らしさそのものが壊されてしまう病気でもあります。この病気に苦しんでいる時は、「もう一生このままなんじゃないか」「一度壊れた人間関係を取り戻すことなんてできないんじゃないか」と思ってしまうかもしれません。しかし、病気に侵される前の本来の自分は、病気がなくなったら当たり前に戻ってきます。また、当時築いていた人間関係も、その時に必要な形だけ戻ってきます。そして、本来の自分を取り戻した時には、摂食障害という強烈な原体験が、これからの人生を生き抜くための原動力になっているかもしれません。もちろん、「病気になって良かった」などと綺麗事を言いたいわけではありません。ただ、病気を生き抜いた後には、同じように苦しむ人の痛みを想像する引き出しがひとつ増え、パワーアップした自分になっている可能性があります。これらは、当時の私には全く想像できませんでしたし、現在苦しんでいる方にとっても、寛解した人の言葉は上から目線に聞こえるかもしれません。それでも、これだけは伝えたいと思います。
また、周りの人々に向けても伝えたいことがあります。この病気は、人間関係の中心にあり、多くの人にとって当たり前に楽しむ「食事」に絡んでいるため、理解が難しく、一緒に乗り越えるのが困難なものだと思います。そのため、時には「病気を治すことに集中してほしい」と言う気持ちから、本人の活動を制限しなくてはいけないと思うことも多いと思います。(もちろん、生命の危機が迫っているときの活動制限は医師の言う通り絶対に守る必要があるという前提はあります。)ただ、この病気は風邪や骨折のように、病気に集中して安静にしていたら治るというものではありません。本人が自分のことを肯定できるきっかけを作ることも、大事な一歩のように思います。病気のせいで自分のことを肯定できるきっかけがどんどん失われている時に、藁をもつかむ思いで挑戦したのに、その挑戦機会を奪われてしまったら、本人にとっては「病気で情けない、大嫌いな自分」という感覚しか残りません。病気ではない部分で本人が変わらずやりたいことを応援しつつ、病気である本人を認めてあげられたら、お互いにほんの少し楽になれるんじゃないでしょうか。そのためには、適切な距離感が必要です。「自分が治させなくちゃ」と意気込んで食行動を監視し始めると、結果的にお互いが疲弊してしまいます。家族やパートナーの方も、ご自身の人生を大切にしてほしいと思います。
「摂食障害になっても、希望を失わない社会」の実現を目指しています。摂食障害そのものが減るに越したことはないですが、完全にゼロになる社会は、現実的にはまだ遠い未来の話だと個人的には思っています。そのため、重要なのは、摂食障害になった後に「自分だけがこんなことに苦しんでいる」「誰にも相談できない、するべきじゃない」と孤立して苦しむのではなく、誰もが当たり前になる可能性があるものとして広く社会的認知が進むことだと思います。そして、当たり前に支援にアクセスできるよう環境を整備をしていきたいです。まずは摂食障害が、LGBTQ+や女性活躍、障害者雇用の課題等と同じように、個人の責任ではなく社会構造上生み出される社会課題として認知され、結果として行政や民間による支援が整備されていくように啓蒙活動を行っていきたいと思っています。